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上・鯨のいり焼(鋤焼)を作るために、皮身の脂で赤身をいためる
下・カクレキリシタンの行事に出された、茹でた鯨の皮身[共に島の館提供]

 

る材料である苧の名産地でもありました。
谷川…私は熊本県の水俣市に生れ育ったのですが。私たちの幼い時は、いつもさらし鯨が正月の食べ物の中にあったのですね。酢味噌で食べるんです。関西は白身で、江戸は赤身だと、宮本さんが言っているのですが、あなた方はどうですか、調べてみて。食べたことはなかったですか。
中園…僕の育った福岡でも、尾羽毛と呼ばれたさらし鯨が多かったですね。ちりちりとしていて、やはりぬたという酢味噌で食べるんです。福岡の街中では、昔から尾羽毛売りの行商が売りあるいていたようです。

 

◎突取式捕鯨から綱取式捕鯨◎

中園…捕鯨法については、例えば平戸の周辺では、江戸時代の始めには突取式捕鯨というやり方を始めている。ただその頃には生月は突取の漁場としては、本格的に開発されていなかったようです。この突取という方法は、一〇艘くらいの船が出て、鯨を追いかけて、鯨に追いつくと銛を投げて、その銛についた綱に船を結び付けて鯨に船を引かせ、疲労を待って、槍のような形をした剣という道具で刺して深手を負わせる。ですからしゃにむに鯨を迫いかけて銛を投げる漁法だと考えていいと思います。
特に捕鯨の初期においては、背美鯨(せみくじら)という泳ぎが遅い、しかも沿岸性の鯨を多く相手にしていましたので、そういうやり方でも結構捕獲が多かったと思われます。ところが、だんだん背美鯨が減少してきたようで、座頭鯨(ざとうくじら)とか長須鯨(ながすくじら)などのように、泳ぎの早い鯨も相手にしなければならなくなると、今までの方法ではなかなか捕獲が困難になってきます。そこで紀州のほうで発明されたようなのですが。まず鯨に網を被せて、遊泳速度が鈍ったところで銛を突くという、一般に網取式補鯨と言われている方法が出てくる。ただ網取といっても、どちらかというと突取の延長で、網掛式の突取捕鯨とでもいうようなものです。これがだいたい一六七〇年代に太地で発明され、十年くらいで西海のほうに伝わってくる。西海でそれを最初に導入したのは大村の二代目深澤儀太夫という鯨組らしいのですが。その方法になって、今までよりも安定的に鯨が捕れるようになった。しかしながら、この網を使う形になると、網を掛けやすい場所を

 

 

 

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